第102回 毎日テニス選手権

毎トーの歴史

日本最古・最大級の公認テニストーナメント

  • 毎トーは1919(大正8)年8月、東京・神田の東京高商(一橋大)コートにテニス仲間が集い、東京オールドボーイズ大会として誕生したテニストーナメントだ。国内最古の公認テニス大会であると同時に、一般の個人が幅広い世代にわたり参加できる開かれた大会として、多くのテニス愛好家に親しまれ、成長してきた。戦争による3年の中断をはさんだこの大会は2001年、第80回の記念大会を行った。記念試合には皇太子時代、第38回大会に一選手として出場された上皇陛下も、上皇后陛下とダブルスを組んでご出場予定だったが、台風と、米軍のアフガン空爆開始により、取り止めとなった。しかし、往年の名選手がラケットを交わした記念大会のあとのレセプションには、両陛下がお揃い参加された。

第1回大会1919年(大正8年)8月

会場:
東京高商コート

第1回大会は1919年8月30、31日の2日間にわたり、東京・神田の東京高商コートで開催された。
東京日日新聞(現毎日新聞)運動部長・弓館芳夫の提唱により「O・B(オールドボーイズ)庭球大会」の名称で、現役学生以外は参加自由として大きな話題となった。
学校対抗の団体戦が中心のこの時代、卒業後に大会でプレーする機会は限られていた。

第2回大会1920年(大正9年)8月

会場:
早大コート

アントワープ五輪で熊谷一弥が日本人初の銀メダルに輝いたこの年から、日本テニスは黄金時代を迎える。早大庭球部の協力のもと、早大コートで8月28、29日にO・B庭球大会が開催された。

第5回大会1923年(大正12年)8月、10~11月

会場:
鶴見花月園コート

8月31日から10日間の予定で開始された大会第2日の9月1日、関東大震災が起き、大会は一時中止。約2カ月後の10月31日に再開された。このため日本初の女子単・複試合は中止となったが、ジュニア、年齢制限(ベテラン)など日本初の種目が加えられた。

第6回大会1924年(大正13年)9月

会場:
鶴見花月園、慶大大森コート

前年に続き鶴見、そして参加者数増加のため慶大大森コート(現大森テニスクラブ)で9月19日より開催された。参加料はシングルスが2円、ダブルスが1組3円。当時、うな重が50銭前後、ラケットが3円50銭から13円もし、テニスは高級なスポーツとみなされていた。

第9回大会1927年(昭和2年)10月

会場:
上井草、早大、法大コート

第9回大会は慶大勢の活躍が目覚ましく、一般単、複とも決勝は慶大同士の対戦となった。シングルスは後年、皇太子殿下(現天皇陛下)のコーチとなる石井小一郎が優勝した。“毎トー”育ての親、福田雅之助は9回大会の総評記事の中でこう述べている。「テニスに進まんとして未だ名を得ないプレーヤーの試練場ともいはれるべきトーナメントが欲しいといふ声が甚だ多い。その叫びを東日トーナメント(当時の名称)が満たす事が出来ると信じている」
この福田の信念はその後、毎トーの大会理念となった。

第12回大会1930年(昭和5年)9~10月

会場:
上井草、早大、お茶の水コート

毎トーの歴史にこの年から女子種目が加わった。

第21回大会1939年(昭和14年)9~10月

会場:
早大、明大、帝大、法大、東日、東伏見、田園コート

日中戦争は泥沼の様相を呈し、国内の物不足も顕著になりテニスボールは配給制となった。デ杯戦への選手派遣も中止となり、戦前の日本テニスの黄金時代は終わりをつげた。

第22回大会1940年(昭和15年)9~10月

会場:
早大、明大、帝大、法大、東日、東伏見、田園コート

この年4月、第2次世界大戦が勃発。デ杯戦は中止となった。前年からのボールの配給制は有名無実で、ニューボールの入手は困難を極めた。

第23回大会1941年(昭和16年)11月

会場:
早大、明大、帝大、東日、田園コート

日本国内は戦時体制一色となり、全日本選手権、インカレなどが中止となる中、第23回大会は一般男女単複を11月5日から11日まで5会場に分かれて開催した。

第24回大会1942年(昭和17年)7月、9月

会場:
早大、明大、帝大、東日、田園コート

前年12月より日本は太平洋戦争に突入。日本庭球協会もこの年11月に解散し、戦前21年間の歴史に終止符を打った。翌年から3年間、戦争激化のため大会は中止せざるを得なかった。

第25回大会1946年(昭和21年)9月

会場:
早大、立大、学習院、田園コート

昭和20年8月、戦争は終わった。戦時中、イモ畑となっていた田園、早大コートを中心に第25回大会は9月に復活した。用紙不足のため、裏表2ページとなった当時の毎日新聞紙上にも復活の喜びがつづられている。

第26回大会1947年(昭和22年)9月

会場:
早大、立大、東伏見、目白、田園コート

乾パン、米の配給が新聞紙上をにぎわす戦後の混乱期の中、9月13日から22日まで、都内5会場に分かれて行われた。

第38回大会1959年(昭和34年)9月

会場:
神宮、パレス、田園、東伏見、早大、立大、中大、学習院コート

この年、皇太子殿下(当時)と正田美智子さんのご成婚は「コートに咲いた恋」と呼ばれ、日本中にテニスブームを巻き起こした。1,300人を超える選手とともに皇太子殿下も出場され、シングルスは1回戦ストレート勝ち、2回戦は5-7、1-6で村山(成蹊大)に敗れた。ダブルスは中村(東京ク)と組み、1回戦を制し、2回戦で福田・藤沢(早大)に9-7、4-6、2-6で惜敗。清宮さまの学友、岩佐と組んだ混合は美智子さまが見守られる中、1回戦は6-3、6-4で快勝、2回戦で真野・関根(神宮)に6-2、6-3で敗れた。

第48回大会1969年(昭和44年)8~9月

会場:
神宮、田園、東伏見、大森、桜台、早大、明大、東大コート

早大コートでは9月4日早朝に学生運動激化のため機動隊が大学構内に導入され、上空に報道陣のヘリコプターが飛び交い、物々しい警戒の中で試合が行われた。また石原慎太郎議員(当時)がエントリーし話題をまいた。

第64回大会1985年(昭和60年)7~9月

会場:
田園、小田急成城、萩山、朝日生命久我山、京浜、武蔵野、富士見ヶ丘、清新、有明、トピレック、あざみ野コート

一般男子本戦に当時17歳の松岡修造(桜田ク)が出場。1回戦で竹内映二(ヨネックス)、2回戦で古田康(日本生命)を破り、2、3回戦で前年の覇者丸山薫に挑んだが6-4、6-1で敗退。決勝は、3年連続決勝へ進出した白石正三(日商岩井)が、福井烈を破り初優勝。福井の北海道オープンから続いた連続優勝を4回で止めた。

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第102回 毎日テニス選手権

主催
毎日新聞社
共催
一般社団法人東京都テニス協会
後援
東京都、一般社団法人関東テニス協会(いずれも予定)
公認
公益財団法人日本テニス協会、関東テニス協会(ジュニア)
特別協賛
株式会社テニスユニバース
協賛
マルトモ株式会社、ヨネックス株式会社、株式会社鈴商、昭和飛行機都市開発株式会社
協力
大塚製薬株式会社、内野株式会社、株式会社キモニー、SPORTS SUNRISE.COM